雨と桜と戦争

3~4日にかけて、ウクライナのリトリーバルに行っていた

先週、イタリアでブルース・モーエン・メソッド・レベル2ワークショップを開催していました。
その時に、エクササイズのサポートに入っていた私は、ウクライナのリトリーバルに呼ばれました。
その時に10人ほどのリトリーバルを次々に行っていたのですが…
(移動をしながら、目につく人に次々と声をかけて、後ろをついてきているヘルパーに任せてゆく感じ
記録を取らないし、対象者の情報を集めたり、証拠を求めずにやれば数をこなせる)

その時に私のガイドがウクライナの状態に関して、非常に憂慮していたのです…

それから一週間。
一昨日あたりに流れ始めた情報で、これまでとは比べ物にならないような悲惨な状況が流れ始めてきていて

ガイドはそれがすでに分かっていたのかな、と思ったのですが。

3~4日にかけて、寝る前、起きてすぐ、ウクライナのリトリーバルに行って
毎回、二けたの数のリトリーバルをしていたのですが
子供から老人、男性も女性も、ウクライナ人もロシア人も、民間人も兵士も
本当に数多くの人がリトリーバルを必要としている状況でした

4日の朝、リトリーバルに行く前
ふっと気がついたら、非物質の中で、満開の桜の咲いている場所に立っていました

どうしても私の解釈者は、飯田橋と市ヶ谷の間の、外堀に面した歩道の桜の並木が浮かんできてしまうのだけれど
そこは大学時代に通った道で
今のシーズンは桜が美しかったのです

そこで、外堀に向かって私のガイド(アンティノウス)と二人で並んで立っていました

現実の私の寝ている部屋の窓の外でも雨が降っていたので
非物質の中と、現実と何となく境界があいまいになる感じかもしれません

非物質の場所では、私のガイドが傘をさして立っていて
感覚的に、185センチくらいの身長があるので
(私は161センチちょっと)

ガイドが傘をさしかけてくれて、雨にならないように相合傘になっていました
過去生で恋人(夫婦)だったし、ロマンチックなシチュエーションですが…
話題は雨も影響してか、少しメランコリックで

『リトリーバルだけど
これは際限がないわね…
戦争のリトリーバルは気持ちが沈むわ

ウクライナに限らず、パレスチナとか、シリアとか、ミャンマーのロヒンギャのこととか、アフリカの紛争だとか
戦いが続いている場所はいくらでもあるから
ここだけを特別視する必要がないのかもしれないけれど
でも、人はなぜ、戦うのかしら』

『君はその答えを知っている』

『今朝のクリシュナムルティの言葉もそうだし…

人が自分と他者で分けて考えるから?
自分と他人の分離の考え方は、家族とそれ以外とか
日本人と外国人とか、日本と外国とか
キリスト教徒とイスラム教徒とか
自分が属する何かと、それ以外を作るわね

そうすると、そこで、考え方、価値観の違いで利害が生まれる
自分の利害を守るために、相手を支配するとか、消すという考えが生まれる
それが戦争なのかなって思う

人って、自分たちを特別だと考えたり
何らかの力があるのだと考えたがることはあるわよね

優越性がそこにはあって
自分や自分の属するものが優れているとか
正義とか思ってしまって
それが行き過ぎると、相手を弾圧したり、抹消することをためらわなくなる』

『悲しいことだ』

クリシュナムルティの言葉というのは

特定の戦争や核破壊に反対するデモが全国で行われています。
賛否両論あります。
政治家は防衛について話しますが、実際には防衛はありません。
戦争があるだけで、何百万人もの人々が殺されているだけなのです。

これはかなり困難な状況です。
人間が直面している大きな問題なのです。
一方は独自の方法で拡大しようとし、他方は積極的に押し進め、武器を売り、ある明確なイデオロギーをもたらし、土地を侵略しているのです。

人間は今、最後の瞬間ではなく、何年も前に自分自身に投げかけるべきであった問いを投げかけています。

人は、人生のすべての日に戦争の準備をしてきました。
戦争への準備は、残念ながら私たちの自然な傾向であるように思われまする。
そのような道を長い間歩んできた私たちは今、

「どうしたらいいのでしょうか?
私たち人間はどうすればいいのでしょうか
実際に問題に向き合う、私たちの責任は何なのでしょうか?」

これは、現在の人類が本当に直面していることであり、どのような戦争の道具を発明し、構築すべきかということではありません。
私たちはいつも、危機を引き起こしてから、何をすべきかを自問します。
今のような状況を考えると、政治家や大多数の一般市民は、国家的、人種的、プライド、祖国や母国、その他もろもろで判断することになるでしょう。

この問いは遅すぎます。
われわれは、直ちに行動を起こすべきにもかかわらず、すべての戦争を止めることが可能かどうか、核戦争とか正統派とかいう特定の種類の戦争ではなく、戦争の原因が何であるかを最も切実に突き止めなければならないのです。
その原因が解明されない限り、通常戦争であろうと核戦争であろうと、私たちは戦争を続け、人間が人間を破壊していくことになるのです。

だから私たちは、本質的に、根本的に、戦争の原因は何なのか、と本当に問うべきなのです。

創作されたものでもなく、ロマンチックで愛国的なものでもなく、ナンセンスなものでもない、本当の原因を一緒に考えてみてください。
私たちが研究してその答えを見つけるまで、戦争は続くでしょう。

しかし、私たちは、戦争の原因を明らかにすることを真剣に考え、それにコミットすることは十分ではありません。
今直面していること、問題の即時性、現在の危機はさておき、私たちは一緒に本当の原因を発見し、それを脇に置き、解消することはできないでしょうか。
これには、真理を見出す衝動が必要なのです。

ロシア、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなど、人間と人間、人種と人種、文化と文化、ある一連のイデオロギーと別のものとの間に、なぜこのような分裂があるのか、と問わねばなりません。

なぜか?
なぜ、このような分離があるのでしょうか?

人間は地球をあなたのものと私のものとに分けた。
それは、私たちが特定の集団や特定の信念、信仰に安心感や自己防衛を見出そうとするからでしょうか。

ヒンズー教、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教など、宗教もまた人間を分断し、人間と人間を対立させてきたのです。

ナショナリズムは、その不幸な愛国心とともに、実際には部族主義の美化された形態、高貴な形態なのです。
小さな部族や非常に大きな部族には、同じ言語、同じ迷信、同じ種類の政治・宗教システムを持ち、一緒にいるという感覚があります。
そして、人は安全で、保護され、幸せで、慰められると感じるのです。
そして、その安全や快適さのために、安全でありたい、守られていると感じたい、何かに属していたいという同じような欲求を持つ他者を、喜んで殺すのです。

集団や旗、宗教的儀式などと自分を同一視したいというこの恐ろしい欲望は、私たちに根を張り、自分はホームレスの放浪者ではないという感覚を与えてくれるのです。

自分のルーツを探したいという欲求、衝動があるのです。

確かに、今、起こっているのは対立であり
それはウクライナを超えて、この日本にも、全世界にも広がっているように思うのです。

その対立には、民族とか、イデオロギーとか、宗教とか、文化とか、経済とか様々な問題が関わっていて
でも、その対立を一つ一つ見てゆくと、やっぱり、自己と他者の分離の問題があって

そして、クリシュナムルティの言う通りに、すべての原因には、それぞれの立場から自分の安全、安心や、何かに属しているという感覚への欲求、衝動のようにも思うのです。

もしも、この分離の意識、何かへの所属、ルーツの意識を超えることができるならば
戦争はなくなるのかもしれない

それはウクライナで始まるのではなくて、一人一人の心の中で始まって
波紋が広がってゆくように、この世界に広がってゆくしかないのではないかと思うのです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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